豊川市観光協会HOMEへ
車座会議

 

御津山から見える御津歴史街道  第2回御津山車座会議    ⇒ 第1回御津山車座会議

 

 

はじめに

御津地区のシンボル的な存在であり、日々の暮らしの中にしっかり根を張った文化遺産である御津山を背景に、今回も愛知県立御津高等学校の地歴部の皆さんと連携して、この地の歴史や文化を再認識し、観光資源の原石を地域を挙げて磨き上げ、光り輝かせることを目的として実施いたしました。

第1部 愛知県立御津高校 地歴部の発表

▽愛知県立御津高等学校の紹介
 豊川市の南部・御津町にある御津高校を紹介します。
 本校は、御津川が流れる中央部の扇状地中腹にあります。周囲を新宮山と御津山が取り巻いている自然が豊かな場所です。生徒数は、5クラス全校で約600人います。校訓は「みがく」です。
 開校は、昭和62年(1987年)で、今年は30年目となります。国際交流が盛んで、「使える 英語と人間力」を合言葉に、学習や部活動に励んでいます。

▽本校・地理歴史部(芸術歴史部ー地歴班)の紹介  
 御津町は、歴史と伝統が深く、私たち地理歴史部は、環境としては恵まれた場所で活動させてもらっています。活動としては、毎週火・金曜日に、部室 でミ―ティングをし、徳川家康を研究する班、西洋の洋菓子・民話を調べる班、世界のお化けや行事を調べる班などがあって和気あいあい活動をしています。また、午後が自由に使える日を中心に、「フィ−ルドワーク」と称して、主に学校の周りを名所・旧跡を見ながらまわっています。  
 コースとしては新宮山、平壌池、茂松城、竹本城、穴観音古墳など、近辺を歩くルート。
音羽・御油など街道を歩くルート。豊橋公園や吉田城などを 歩くルート。岡崎城と八丁味噌の蔵を見て歩くルート。大須観音とその周辺を歩くルートなどいろいろなルートをたどりながら、歴史や文化を学んで歩いています。  
 さて、毎年4月には、新入生歓迎行事も兼ねて、御津山の頂上の展望台まで登り、三河湾を見渡します。桜が咲き誇る時期は最高のロケーションになり ます。その際、ここの「大恩寺」にもおまいりをし、古文書や絵画などの詰まる「宝物蔵」も見せていただいております。春や秋などには、社会見学として、平松食品さんや八丁味噌さんのご協力を得て、「三河の伝統食」や最新の工場設備を見学させていただき、平松社長から直接お話を伺いました。
 そんな御縁もあり、一昨年は、三月末に、御津山車座会議に出席、また今年も招かれま した。皆さんのご期待にそえるか分かりませんが、精一杯発表をしたいと思います。よろしくお願いいたします。

1.御津の地名と古墳についての発表

@御津という地名の由来について  
「御津」は「和名抄」と呼ばれる書物に『美都』と表記されている。ミトのトの字に津の字をあて、船舶の出入りする港という語意。
 1899年10月1日、当時の西方村、泙野村、広石村、豊沢村、金野村の5村が合併して、 御津村が成立した。17年後の1906年、さらに佐脇村、御馬村も合併、御津村が成立。30年後の1936年2月11日、御津村から御津町に。2008年1月15日、御津町は豊川市と合併し、豊川市の一部、そして、現在に至る。   

A御津周辺の古墳‥‥御津船山古墳、穴観音古墳、八幡船山古墳の3つにしぼり調べた。
  古墳とは‥‥‥ 私たちが知っている意味として多いのは「お墓」の意。これは、弥生時代の話。弥生時代の終わりごろ、権力を争う豪族たちが、自分の権力を示すために古墳を作る。古墳にも種類がある。
  有名な古墳‥‥ 大阪府の大仙陵古墳、前方後円墳。
前方後円墳とは、○の形と□、もしくは台形が合わさったもの。
小さなもので直径2〜3m、大きなものだと100mを越える。
  面白い2つの古墳のかたち‥‥
 1つ目は古墳群。主に前方後円墳や前方後方墳、方形と長方形(台形)の盛り土をつなぎ合せた、古墳時代を代表する形のものを中心とし、周辺に円分や方墳などを配置した古墳。    
 2つ目は双方中円墳。円丘に2つの長方形または台形をつなぎ合せた形状をしている。 方丘部分には円丘と外部をつなぐ通路が発達したものと考えられている。


B穴観音古墳‥‥
 穴観音古墳は、御津高校の西方に位置する円墳で、横穴式石室に石造りの観音像が安置され、その名がつき、この地の信仰対象となる。伝説では、武烈天皇の時代、499年〜506年に、全国で火の雨が降るという噂が流れ、その避難用に造られたものとされる。
 平成元年の発掘で、この古墳は東海地方では大変珍しいとされた。築造年代は確定できない。
 7世紀初めごろでは、観音像は開運、健康、諸願成就の御利益があり、願い事と引き換えにお供えをすると約束したものは必ず差し上げねばならない、という言い伝えもある。
 造られたのは6世紀あたり。値は正確ではないが、直径20m、高さ 3.5m。南横穴式石室、石室は、全長約18m。石室で遺骸を安置する部屋=玄室に通じる道の羨道部は長さ約4m、幅約1.7m、高さ2.8m。石室外護列石という石垣が3段。列石は、古墳の大きさを表し、墳丘の保護をする、石畳状の石積。1段目は1.5m、2段目は1m、3段目は2m。この形の古墳は、東海地方では珍しい。

C御津船山古墳‥‥
 御津船山古墳は、豊川市八幡にある船山古墳と同じ前方後円墳。両古墳とも、この地方の古墳では、特に貴重。全長37mで、調査により、円の頂上付近に盗掘跡と推定される直径約3mの陥没部分を確認。築造された当時、周濠つまりお堀が巡らされていたと考えられている。
 御津町内にあるいくつかの古墳のうち、一見して古墳と分かる墳丘を残しているのは、この御津船山古墳と穴観音古墳だけ。2つの古墳の造りや材料から考えると、町内には過去相当数の古墳があったと推定。

D八幡船山古墳‥‥
 古墳が2つセットで呼ばれ、第1号墳と第2号墳がある。  
 第1号墳から出土したものは、埴輪片、須恵器、陶器や瓦、縄文時代の石器など。
ここから、埴輪棺とよばれる物が2基出土。
 第2号墳は、古墳の形が既にない。第1号墳の形と似たような形象埴輪の破片が出土。

参考資料 地図 (pdf)

2.徳川家のその家紋について(小坂井町・伊奈に残る葵の伝説)

 今年は徳川家康公薨去(こうきょ)から400年でもあり、徳川家について、2つのことを調べた。

@ 徳川家の「丸に三葉葵の紋」の由来と種類
 家紋の由来は諸説あるが、そのうち2つの説をあげる。   
 1つ目の説は、徳川家のルーツである松平氏が加茂家の後裔とする説。
 「葵紋」は、ウマノスズクサ科の植物・フタバアオイ(資料1)を図案化したもの。通常は葉が二枚の二葉葵で、そこから派生して架空に作られたのがこの三葉葵(資料2)とされる。もともと葵の紋は、賀茂氏を祀る神社の紋、いわゆる神紋(資料3)、賀茂氏や賀茂神社と繋がりのある三河国の武士団が、家紋として使用。家臣である本多家、酒井家なども賀茂神社ゆかりで、葵の紋を用いる。その点、三河武士松平家が、賀茂氏や賀茂神社と関係があったのではないかと思われる。
 また、松平氏三代目信光が賀茂氏を称し、現在の豊田市・松平郷という加茂に由来する土地を領有していたため、実際には加茂氏の末裔ではないかと言われている。
 
 2つ目の説は、家康の祖父・松平清康が葵紋を本多家より譲られたという説。
 この説は、『藩翰譜(はんかんふ)』という諸大名337家の由来と事績を集録された書に書かれている。松平清康が吉田城を攻めた際に、当時の伊奈城主である本多正忠が先陣を勤め、落城させるのに貢献した。正忠は、清康を伊奈城に招いて祝宴を開き、花ヶ池のミズアオイの葉に酒の肴を載せて出したところ、清康は瑞であると大いに喜び、本多家の徽号の葵(資料7)をもらったものだと伝えられている。

A花ヶ池と伊奈城址を歩いて見て
 現在も花ヶ池は残っている。城跡の敷地がJR新幹線によって分断され、伊奈城址とは線路を挟んでいる。小学生のころは学校の遠足などで足を運んだ。今でもたまに小学生などが遊んでいるのを見ることができる。小学生の歴史に興味がなかった頃とは見え方も全然違い、いろいろな見方ができるようになった。(資料4他)
 徳川将軍家・御三家では同じ「丸に三葉葵」を用い、徳川宗家の用いたものを「徳川葵」と呼ぶ(資料2)。  
 御三家ではそれぞれ葉の模様に違いがあり、本家への遠慮が伺える。(資料5、6)

3.御津山フィールドワーク=御津町・広石・泙野地区を碑文と建造物から探る

@御津神社‥‥
 御津町の総社となっており、祭神は大国主命といわれている。拝殿が大変大きく、 その偉容に御津の港の繁栄が偲ばれる。
 境内のくすのきは古木。平野・竹本両人の義人の碑。伊勢神宮の遙拝石。羽田野敬雄建立の歌碑。船のご神体。渡辺鑵造氏の顕彰碑などなど境内には見るモノが多い宮。
 なお、4月第二日曜日には、「いか祭り」が行われ、本校からもボランティアで、神輿を担ぐ生徒もいる。

A 大恩寺‥‥
 浄土宗の有名お寺です。境内には、松平清康(家康祖父)夫妻、広忠(父)、亀姫(娘)の四つの墓がある。この大恩寺は、わが地歴部の新入生と共に4月に、宝物を見せていただいている。家康や今川の書状の他、紫衣の綸旨(りんじ)は明応年間で、後土御門天皇の出されたもので貴重。

B泙野(なぎの)神社‥‥
 御津南部・泙野地区の氏神。祭神は豊玉姫命で竜宮の乙姫様とも称されている。女神で慈悲深く幸運を授け、災いから身を守るというご利益がある。
 奈良時代にこのあたりに住んだ飯盛長者が台風にあった時、願をかけ命を救われたことから創建したと伝えられる。
 また境内のクロガネモチの木は、乳の病気や乳の出の悪い人にご利益ありと伝えられている。

C 石畳(いしたたみ)神社‥‥
 御津山の南部中腹に鎮座。祭神はわかっていない。泙野地区が見渡せる位置にあることから、 村荒神として祀ったとされている。岩を砕いた石の畳で神域が作られていることから、いしたたみ神社という。
 なお、御津神社の別宮でもあって、祭礼は御津神社と同じ日。生烏賊かするめが納められる。神社の下には大峯講の行者の像と講の石柱が見られる。

D多聞閣‥‥
 岩畳神社の脇の道を少し東向きにまわり、やや東寄りの階段を登り切ると、多聞閣がある。
ここには、徳川清康の念持仏でもあった毘沙門天を祀っている。毘沙門天またの名を多聞天ということから、その安置場所として「多聞閣」と名附けられた。
 毘沙門は、北方を守り、国土安全、五穀豊穣を約束する神様。もと毘沙門天は、大恩寺にあったことから、ここも大恩寺の一部。昭和5年(1934年)7月に、ここに御津山遊園地があり、そのまもり本尊として中央に置いたのが由来。
 この周辺には今も遊歩道の跡があるが、かつて「飛行機公園」として公園の形を整備し、桜の花を植え電飾をつけたりして参拝客、行楽客でにぎわったという。

E御津山‥‥
 我が御津高校の部室からも見え、小中学校の校歌にも歌われる御津・大恩寺山。現在、山頂に展望台があり、部員も桜の見頃シーズンに訪れるのを楽しみにしている。
 一昨年、この場で話をした、先輩達とも御津山でお別れし、今会場に来ている新入生らを迎え入れた。そういう意味で御津山は本校部活動にとっては大切にしていきたい場所。
 展望台に登れば、三河湾のみならず、渥美半島やラグーナ蒲郡、本宮山も見える、東三河全体を見渡せる場所。
 山の頂上の広場には、昭和18年〜20年までここに設置されていた砲台の台座のあとも残る。B29爆撃機がこの上を飛来し、御津駅前や豊川海軍工廠を爆撃、多くの死傷者を出すこととなった。そうした犠牲者を祀る供養塔も立てられている。70年前の戦争のことも考えられる場所。

第2部 御津山千年古道観光開発計画概要

第3部 御津山車座会議(フリートーク)

前ページ 車座会議 へ戻る


豊川市観光協会ホームページへ御津山車座会議
Copyright (C)2010 豊川市観光協会 All rights reserved.